名前 | 高田奈穂子 |
生年月日 | 1976年10月14日 |
出身地 | 大阪府大阪市 |
留学履歴 |
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高校留学先学校名 |
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高校卒業時の資格 |
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趣味 | ピアノ、愛犬とのお散歩 |
座右の銘 |
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はじめまして。ニュージーランド留学TO GO代表の高田奈穂子です。
ニュージーランド留学TO GOは、ニュージーランド留学専門の現地エージェントです。
留学をしたいと思っている方が日本にはたくさんいらっしゃいます。ですが、留学をしたいと思っているけれども、あきらめている方も日本にはたくさんいらっしゃいます。
私は高校留学3年間、工科大学留学1年間をニュージーランドのクライストチャーチで過ごしました。せっかく抱いた留学の夢をあきらめないでほしいと、みなさんの背中を少しだけ押しています。
なぜそんなことをしているのか?それは、私自身の留学経験に理由があります。
少し長いですが、私の自己紹介を込めた留学紀です。(一番最後には留学時代の写真があります。)
1つの夢を諦めて叶えた留学の夢
私は16歳になりたての高校一年生だった1993年2月13日に高校留学のためニュージーランドのクライストチャーチに旅立ちました。3歳上の兄が、その3年前からクライストチャーチで高校留学をしていましたので、ありがたいことに私はそれまでに4度、短期間でニュージーランドを訪れていました。2度目のニュージーランド訪問は中学3年生になる直前の春休み、私一人で兄に会いに行きました。その時に兄と長距離バスでダニーデンというクライストチャーチから5時間ほど南に行った街に旅行をしたのですが、そのバスの中で、羊しか見えない景色を見ていたら、ふっと「私も留学したい!」と思いました。当時の私は「Hello」と「Yes」しか話せなくて、兄が居ないと誰とも話ができなかったですし、それまで英語にも、留学にも興味がなかったのですが、「ここに来たら、何かが変わるような気がする」と思ったのです。小学校から私立の女子校に通っていたので、毎日毎日、同じ時間に同じ場所で同じ友達と送る生活に飽きていたのは確かで、どこかで環境を変えたかったのです。ですが、その反面、中学校から卓球部に所属していた私は、中高一貫の部活動を活かして、高校生になったら全国大会に行く!という部員共通の目標を胸に、中学校のキャプテンとして月曜日から日曜日まで、1年間を通してほぼ休みなしで練習をしていました。両親も「あんたは女の子やから留学は高校を卒業してから!」と高校留学を許してくれなかったので、そのまま、同じ学校の高校に進学をしました。ところが、転機は突然にやってきたのです!その年の年末、私と両親と学校の友達二人とで兄に会いに行きました。私にとっては4度目のニュージーランドでしたが、父にとっては初めてのニュージーランドでした。両親が揃ったということで、兄がお世話になっている先生やホストファミリー、兄を本当の息子のように愛してくれている、私たちの両親と変わらない年のご夫婦などに、皆で挨拶をしに行ったり、クライストチャーチや近郊の街に観光に行ったりしました。そこで、父がクライストチャーチがどういうところか、ニュージーランド人がどんな方々かを知り、「クライストチャーチを初めて見て、ここになら、娘のおまえを安心して行かせられると思った。もし本気で行きたいなら、すぐに留学をしていい」と突然、旅行中に許可をしてくれました。それが、確か、1992年の12月30日のことです。ただ、父が許可してくれた時に「留学したい!」と即答はしていたのですが、やはり、気になったのは、部活動のことです。上の学年に部員がいなかったため、高校1年生でしたが、既にキャプテンを務めていましたし、自分が抜けたら全国大会にはきっと行けなくなるということはわかっていましたので、そこは悩みました。それでも答えがでないので、顧問の先生に相談をしました。そしたら、先生は即答で「おまえが行きたいと思うなら行ってこい!クラブの方は気にするな!」と迷う私の背中を押してくださいました。後で先生に聞いたのですが、あんなにも真剣に部活をしていた私が、そこまで迷っているということは、本当は行きたいのだろうと思って、クラブとしては行って欲しくないけれども、押してくださったんだそうです。それで悩みは100%吹っきれ、ニュージーランドの新学期がすぐに始まる時期でしたので、留学に向けて急いで準備を始めました。もちろん、大人になった今振り返れば、卓球で生きていくわけではないですし、部活よりも留学を選択するのは、ある意味、当然のことかと思います。ですが、16歳のあの当時の私には、部活動は生活の80%を占めていましたし、そこを離れることは、とてつもなく大きな決断だったのです。ですので、あの時、顧問の先生がはっきりとした言葉で私の背中を押してくださらなかったら、今の私はなかったかもしれません。今でも、私の人生を変えてくださった先生には感謝をしています。ちなみに、私が抜けた卓球部ですが、全国大会こそ行けませんでしたが、近畿大会には3回出場してくれました。
変わることができた自分
顧問の先生に背中を押して頂いてから1ヶ月後には、留学のため、クライストチャーチに旅立ちました。兄に甘えたくなかったので、兄とは違う高校に行くことにしました。日本では校則が厳しく、愛情を持って生徒を守ってくれるカトリック系の学校に小学校1年生から約10年間通ったので、ある意味、「カゴの中のお嬢さん」という生活を送っていました。ですので、自分を変える為にも、留学をする際に私が出した高校の条件が、「公立、男女共学、無宗教」と真逆の学校を希望しました。ですが、学校に男子が居ることが初めてでしたので、入学初日に男子生徒が勢いよく教室に入ってきた時には、「こわい!帰りたい!一体何が起きたのか?」とショックを覚えた感覚を今でも覚えています。自分を変えるというのは壁が高いと自覚できた瞬間でした。英語力は、留学が決まって、たったの1ヶ月で渡航したので、英会話の準備などする時間もなく、「Hello」と「Yes」しか話せない状態のままでした。そんな状況でどうやって生き延びたのかは必死すぎたので記憶に残っていません。ただただ、授業が全くわからいので、先生の汚い字を必死にノートに写して、夜、教科書とノートと辞書を並べて勉強していたのを覚えています。真っ黒に垢がついた当時使っていた英和辞典は、努力の証だと今でも宝物として大切に持っています。そのお陰で、英語を最も話せなかった1年目が、高校3年間の中で最も成績が良かったのは不思議な話です。なので、余談ですが、私がガーディアンサポートをする中高生には、「英語力と成績は比例しないから、英語がわからないから成績が悪いという理由は、ニュージーランド留学TO GOでは受け入れません!」と冗談でお話をしています。生徒さんは、「実体験を言われたら言い返しができない」という渋々顔で聞いてくれています。(笑)そんな記憶に残らないほど必死だった最初の頃の留学生活ですが、私を支えてくれたのは、背中を押してくださった先生の言葉と快く送り出してくれた部活の仲間たちや応援をしてくれた学校の友達の存在です。「あんなに盛大に応援をされて送り出されたら、今更帰れない!」と気合を入れて毎日を送っていました。ある意味、良いプレッシャーだったのだと思います。そうこうしているうちに英語力も伸び、ニュージーランド人の友達もでき、ニュージーランド生活にも慣れてきたのが、クライストチャーチに来て1年が経つ頃でした。その頃には、カゴの中のお嬢さんから、カゴから解き放たれすぎた少女に変わっていました。(笑)留学まで、守られた生活をしていましたので、留学1年間は、人生で初めて、世間がどういうものなのかを勉強できた気がします。それは時には、今までの人生では味わったことのない荒波でもあり苦労でもありましたが、逞しくなった自分、日本では真面目過ぎるほど真面目な生徒だったのが少し柔らかくなれた自分を自身でも感じるほど成長できました。同じ街に住み、傍で私を見守ってくれた兄には、「体も丸くなったけど人間も丸くなった。本当におまえは留学をして良かった。」と言われました。(最初の1年間で17KG太ったので。(笑))中学3年生直前の時にダニーデンまでの長距離バスの中で思った「ここに来たら、何かが変わるような気がする」という思いは、良い意味でも、少し悪い意味でも(←体系的に(笑))現実のものとなり、今でも私の人生の基盤となっています。
自分のやりたいことができるようになったねと押してくれた友達
しかし、順調だった留学生活に突然、強い荒波が立ったのは高校三年生に進級したばかりの1995年3月のことでした。母から、「お父さんが胃がんになったから手術する」との連絡が入りました。18歳でまだ子供だった私には、「がん=死」だった為、学校に行けなくなるほど取り乱し、「このままニュージーランドに居てられない」と父の手術前に一時帰国をしました。術後3週間程して父の容態も落ち着いた為、ニュージーランドに戻りましたが、進路に悩み始めました。留学生活に慣れ、友達もたくさんできた2年目以降は、「日本には帰らないで大学はカンタベリー大学(クライストチャーチにある国立大学)に行く!」と目標を決めていましたので、それに向けて、学校の先生とカリキュラムを組み、科目も選択していました。ところが、父が病気になったことで、「日本に帰ったほうが良いのだろうか?」と悩み始め、最後の最後まで結論が出ませんでした。ただ、自分自身は、カンタベリー大学に進みたかったので、そのまま勉強を続け、無事にBursary(バーサリー。現NCEAに相当するもの)をパスし、University Entranceという大学入学資格も取り、カンタベリー大学進学という夢を叶えるところまで行きました。ところが、父が病気になって以来、母が「大学は日本で行って欲しい」と言い続けており、私の中でも悩みに悩みました。そこで、「日本の大学を受けて落ちたら、母もあきらめるだろう。私も決心がつくだろう」と思い、気軽に同志社女子大学の帰国子女枠の受験を「落ちるために」したら、なぜか受かってしまいました。多分、Bursary(バーサリー)をパスしていたので、それが合否に影響をしたのかなと思います。想定外に受かってしまい、逆に悩むことになりましたが、「これは、神様が日本に帰りなさいと、おっしゃっているのかもしれない」と思い、50%ぐらいは嫌々ながら、同志社女子大学進学を決意し、帰国しました。ですが、やはり、ニュージーランドに残りたかったのですね。カンタベリー大学に行って勉強をしたかった中国語をあきらめられず、同志社女子大学を休学して、国立クライストチャーチ工科大学(現Ara)にある1年間の中国語科コースに、親に相談もせずに願書を出して合格をしました。この時もBursary(バーサリー)の結果が合否に大きく影響をしました。そして、英語環境で私にとっては3カ国語目になる中国語の勉強をする夢を叶え、そこでようやく満足をして日本の大学に復学をしました。大学の後は、「世界で生きていくためには、英語+αが必要だ」と思い、家業の塗装業を手伝いました。肉体労働でしたが、手に職を持つことだけを目標に仕事をしながら、いつか、ニュージーランドの永住権を取りたい!と思い、「いつ、ニュージーランドに戻ろうっかなぁ」と考えていました。そんな26歳のある日、父が受けた定期検査で、大腸がんが見つかりました。それも、手遅れの状況で、余命が2年と宣告されました。その時点で、ニュージーランドに戻るという思いを消し、父のそばに居る決心をしました。ただ、その間に高校時代にお世話になったホストマザーやホストシスターが結婚をするので、結婚式があるたびに、ニュージーランドに戻り、「本当はニュージーランドに戻りたいんだよね。でも、お父さんが病気だから今はできないんだ」と友達に話をしていました。そして、2004年6月6日に父は永眠をしました。そのことをニュージーランドの友達にメールで伝えたら、「こんな言い方をしたらダメだけど、あなたは、これからは自分のやりたいことをできる状況になったんだよね。」と返信が届きました。その時に、「そっか!この10年間、我慢していたこと=ニュージーランドに戻ることをして良い状況になったんだ!」と父を失った悲しみの中、少しの光を見ることができました。この友達の一言がなかったら、私は何年たっても、母を置いてニュージーランドに戻るという決心はできなかったと思います。私の背中を押してくれる友達からのありがたい一言でした。そして、いろいろな偶然が重なり、2007年7月25日にニュージーランドの永住権を無事に取得することができ、高校生の頃から夢だった「ニュージーランドに住む」ことが叶いました。今は「悩み事は何があるかな?」と考えても浮かばないほど幸せな生活を送っています。
行きたかったら行けばいい!やりたかったらやればいい!
これは、私の私見ですが、ニュージーランド人にとっては、そのルーツがイギリスからの移民で成り立った国家ですので、海外に引っ越すことは全く特別なことではありません。親戚や家族がイギリスやオーストラリア等の海外に住んでいる家庭がたくさんあります。ですが、ニュージーランド人は旅行でも移住でも英語が通じる国を選ぶ傾向にあります。逆に日本人は、移民で成り立った国家ではないので、なかなか海外に住むということが遠い存在です。ですが、日本人は旅行の場合、言葉が通じない国にでも平気で行きます。そういう意味では、日本人の方がよりグローバルに対応をできる人種だと私は思っています。ただ、留学に行く人が少ないため、留学も海外旅行と同じように近いと気づいていない方が多いだけだと思います。 「英語を話せるようになりたい「海外に友達を作りたい」「自分を変えたい」 留学を考える方にはみなさん、それぞれ理由があります。そこに共通していることは、「一歩踏み出す勇気」、「やりたいことをやる勇気」を持てば、新しい自分を見つけられること、新しい未来を開けられることです。そして、その勇気は、私が顧問の先生や友達に背中を押してもらったように、周りの人が少し背中を押してさしあげることで持てる勇気だと、私は信じ、みなさんの背中を少し押しています。 私は高校生時代、日本の大人の人が「いいね。若いうちに海外に行けて。私も留学してみたいわ。でもなぁ・・・。」と言われるたびに、「行きたかったら行けばいいやん!」と思っていました。子供でしたので、何も背負っているものがなく、まだ人生経験が浅く怖いもの知らずで、なんでも平気で挑戦できたからできたからだと思います。でも、人生の根源は、そこにあるのではないでしょうか?行きたかったら何も考えずに行けばいい!やりたかったら何も考えずにやればいい!人生を楽しむって、時には、こういう気軽さや大胆さが必要なのではないでしょうか。そして、その経験が歳を重ねていくごとに、人生の重みへと繋がっていくのです。